堺雅人、井川遥が出演の「平場の月』。
TVの番宣や、YouTubeの一部映像を見て、50代の折り返し地点に来た者が感じる様々な思いは、私だけが感じるものではないんだと思った。
それだけで、強く感情を揺さぶられた。
すぐに、映画を観たいと強く思った。
私は昔から、時折、感情のままに、冷静さを保ちながらも、衝動的に行動する。
すぐに映画のチケットを予約して、休日の夫と子どもを残し、早速、1人で映画を観に行った。
何だか、観ないと後悔する気がした。
田舎だから50代くらいをターゲットにした映画は、流行らないのか?、日曜日の8時45分という、早朝の上映。
駐車場で1人、映画館が開くのを待つ。
映画を見ようと、駐車場に車が集まってきた。
私より年上らしき女性が1人で見に来ていたり、中年男性が1人だったり、夫婦だったり。
それぞれが何か感じるものがあり。また、何かを感じたくて、この映画を観に来たんだと思った。
勝手に「お仲間」認定させてもらった。
映画は、50代、元中学校の同級生の堺雅人さんが演じる青砥と、井川遥さんが演じる須藤が、再会する所から始まる。
お互いに好きだった淡い過去がある。
しかし、恋愛がメインでもなく、これまでの人生を振り返り、互いの人生を語り、共感し合う、そして生きること、死ぬことを間近に感じる、須藤が、残される青砥を思う気持ち、素直ではないような、でも相手を思い、自分の気持ちに正直に生きた、そして愛する者の死を経験しながらも生きていく青砥、そのあたりが映画の肝のように感じた。
50代になり、互いに酸いも甘いも経験しているからこそ、今度は、恋愛をスタートできた。
再会後、青砥と須藤は、同じ時代、同じ町で過ごした昔を、懐かしむ。
そして共に過ごしていない時間を埋めるかのように、焼き鳥屋やアパートで、お酒を飲み、語りあう。
焼き鳥屋で流れる、薬師丸ひろこのメインテーマ、アパートで須藤がおどけて歌う、早見優の夏色ナンシーの「そーんな、歳ごろね」のフレーズ。
懐かしくて、50歳の私にはたまらない。
私も最近、よく昔を懐かしむようになった。
当時の出来事、当時の感情を思い出し、あの時はこんな気持ちになったな、なんて思い出す。
50歳あるある現象なのだろうか。
今度、たまに集まる同級生3人で飲もう。
その時に同じように過去を思い出しているか、尋ねてみよう。
話を平場の月に戻す。
青砥と須藤は、互いに中学生の時に思いを寄せていたが、淡い恋だった。
須藤の家庭環境のこともあり、須藤は当時、立っているのに、精一杯だった。
無理やり気持ちを強くしていた。
そんな状況だから、恋愛には発展しなかったが、須藤を心配してくれる青砥の存在は、中学生という、まだ心が不安定な時に、とても支えになったと思う。
青砥、ありがとう。
須藤の代わりに、私がお礼を言っておこう。
50代になり再会した2人。
昔抱いた好きという感情が、いい歳になった今でも、いくら相手が歳をとったにせよ、面影を残し、口調を残し、しぐさを残し、紛れもない好きだった相手だから、当然、また好きになる。
この好きという感情は、理屈ではなく、本能だ。
いくら時が経とうが、会えばもう好きなんだ。
どうしようもない。
アパートで、青砥が須藤に迫るシーン。
日常にありそうなシーンで、それがまた、現実味があり、じわじわ良かった。
恥ずかしいが、50歳乙女はきゅんとしてしまった。
話は変わるが、私はこの映画で、これまでも、いつかは死が訪れると理解はしていたが、初めて現実味を帯びて、死を感じた。
もういつ死んでもおかしくないんだよな、と。
私が死んだら誰が悲しむのかな、と考えた。
たくさんの人に悲しんでもらわなくていい。
自分の大切な家族に、葬儀の日に、悲しんでもらえたら、それでいい。
あれ?、大切な家族には、悲しませたくないと思っていたのに。
でも、今の気持ちは、なぜか、悲しんで欲しい。
そして、心の中で、繋がっていて欲しい。
そんなに遠くない未来、といっても5年は生きて欲しいが、両親もいずれ、この世を去るだろう。
自然の節理だから仕方ない。
その時は、死を噛みしめよう。
両親のこれまでの人生に、思いを馳せよう。
両親との思い出に思いを馳せ、当時の自分の感情を思い出そう。
その前に来年のお正月を、両親、家族で穏やかに過ごそう。
時間は有限だ。
毎日を大切に、平凡な日々に感謝して、「平場の月」を眺め、時には「夢みたいなこと」を考えながら、毎日を過ごそう。
そんなことを考えさせてくれる映画だった。
まだまだ、青砥と須藤の感情について、書きたいことはある。
それはまたその②、その③なんかで書きたいと思う。